沿革
HISTORY
沿革
HISTORY

創立文禄3年、400年の歴史ある曹洞宗の寺院です。

山本 周五郎著作の「樅ノ木は残った」で有名な主人公・原田甲斐の菩提寺である東陽寺・九世大器永達大和尚が文禄3年(1594)に開創し、400年を越す歴史をもつ曹洞宗の寺院。山号を福壽山という。

円龍寺の歴史
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円龍寺の歴史
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原田家の歴史

元和元年(1615)、原田甲斐の父・宗資が、山形県東置賜郡小松から船岡に4300石の城主として転封してきた。
それ以前、入間田には城館が2つあり、1つは石田小花館(城主:入間田伊賀守)。2つめは五輪ノ入にある丸山館(城主不明)があった。原田宗資に従わない2つの城主は抵抗する。
だが、石田小花館の城主は恭順を示し、館を引き渡した。のちに原田家に勤め、家老に任ぜられる。重鎮として後世まで用いられたという。一方、丸山館城主は最後の一兵まで抵抗し、原田家の憎しみを一身に受け、丸山城主は切腹。一族郎党、女子に至るまで斬殺された。

柴田郡誌記載
record

坊下・番谷・堀ノ内という地名からも、その昔が偲ばれます。

入間田五輪ノ入に丸山館という古館あり、その昔、原田宗資 により陥られたという。今尚、古跡の周囲にある豪跡。 坊下・番谷・堀ノ内という地名からも、その昔が偲ばれる。

創立の由来

原田宗資にとって、丸山館城主は敵とはいえ、その処罰の厳しさ、人の世の哀れみを感じ、菩提寺である東陽寺・九世大器永達大和尚を東向きの高台につかわし、丸山館関係の霊供養を行うため大法要を開いた。そのために建立されたのが(福聚山)円龍寺である。文禄3年(1594)の8月のこと。
原田家を開基に(福聚山)円龍寺ができ、10間四方の総二階建ての建物が建立された。(明治38年に焼失)
寛文11年(1671)に原田甲斐切腹により、原田家は断絶。それにより、原田家菩提寺東陽寺は登米市東和町に所替えとなる。
その時から、円龍寺開基原田家の名は消滅。「福聚山」を現在の「福壽山」に変えた理由も、何かあると思われる。伊達家に配慮した処置であることは疑いがない。

円龍寺年表

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天長元年

書物「和名抄」では新羅人(渡来人)54人を陸奥の国 (福島・宮城・岩手・青森の4県)へ安住させ「柴田郡新羅郷」として入間田に定住を図る

康平5年

源頼義・義家陸奥平定。その際、渡来人を含め50数人を移住させた入間田に農業集団・川崎に鍛冶集団の定住を図った。

※寺宝:合沢不動明王・十字剣が証明

応永22年

薬師如来・十二神将制作 (作:権律師彦龍)

応仁2年

原田家菩提寺、東陽寺が山形東置賜郡小松に創建

文禄3年

入間田五輪ノ入「丸山館」が原田宗時により滅ぼされ落城、一家断絶する→東陽寺・九世大器永達大和尚が中心となり、丸山館関係者の一大法要を厳行するとともに、福聚山円龍寺を開創

元和3年

原田家転封にともない、東陽寺が柴田、船岡に転住

寛文11年

伊達家御家騒動により原田家断絶、御本寺・東陽寺が登米市米谷に移住

寛文16年

入間田地区屋敷沢が田手家の領地となる

天保10年

天保の飢餓死亡者供養のため、ご本尊の観世音菩薩・道元禅師像・大権修理菩薩像・地蔵菩薩像・達磨大師像の5体を奉納 (奉納者不詳)

明治38年

失火。本堂はじめ全建物焼失

明治41年

目蓮寺から薬師堂を転移。仮本堂に転用

昭和25年

本堂を建立

昭和31年

薬師如来・十二神将が宮城県重要文化財に指定される

昭和41年

薬師堂建立

平成4年

会館・庫裡・鐘楼堂建立