由緒ある文化財を寺宝として守り伝えています。
お堂には不動明王や子安地蔵、マリア観音などが安置されております。
子安地蔵は、若い女性が1か月借りていったところ、子どもを授かったと喜ばれることも。
時代時代で人々の苦しみ、悩みは違いますが、皆さん手を合わせ、慰めを得てきたのでしょう。
寺宝を拝観することができます。ぜひご来山ください。
聖観世音菩薩 (円龍寺御本尊)
・制作時期不詳
御本尊となる聖観世音菩薩は、天保10年(1839)に奉納された記録あり。
2018年に修復を行い、赤外線解析により、両脚部材内部に墨書がみられ、特徴的な花押から、墨書は室町時代まで下がると思われる。
また、御本尊様の本躰の面部には、表面の見えるお顔の彩色層から、眉毛や髭を表現した墨描が見られ、元のお顔があることが判明。仏師さんにより覆いかぶされた彩色層を剥がし、元のお顔に戻られた。
新たなお顔で皆さまを安ずる優しさが溢れている。
聖観世音菩薩は「正観音」とも書き、六観音の一尊。左手に蓮華(れんげ)を持ち、右手を開いた形をし、衆生を救済するために種々の身を現ずる大慈大悲の菩薩様である。
達磨大師坐像
・文化元年(1804) 仏師五左衛門 作
2019年に修復を行い、赤外線解析により体幹部材(背面側)に墨書が見られ、文化元年の銘は造像の時期として適当であると推測。
中国の禅宗は5世紀の後半にインドから渡来した「菩提達磨」を初祖とした。
インドのバラモンで生まれ、西暦520年頃、海路南中国に渡り、北方の魏に向かいながら、各地で禅を教え、洛陽東方の嵩山少林寺で壁観(壁に向かって坐禅をすること)をして心の本来清浄である理を悟ることを主張された。
道元禅師像
■道元(どうげん)
正治2年(1200)京都府京都市生まれ。
正治2年1月2日(旧暦)〜建長5年8月28日(旧暦)鎌倉時代の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。宗門では高祖承陽大師と尊称され、道元禅師とも呼ばれる。
<道元の活動>
□建歴2年(1212) 比叡山にいる母方の叔父の良顕を訪ねる
□建歴3年(1213) 天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る
□建保3年(1215) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める
□建保5年(1217) 建仁寺にて栄西の弟子の明全に師事
□貞応2年(1223) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡る
□南宋の宝慶元年(1225) 天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。その際の問答記録が『寶慶記』である。
※身心脱落:体も心も一切の束縛から解き放たれるということ
※只管打座:ただひたすらに坐禅をすること
□安貞元年(1227) 日本に帰国。帰国前夜に『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また同年に『普勧坐禅儀』を著す。
□天福元年(1233) 京都深草に興聖寺を開く。『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を鎮西大宰府の俗弟子、楊光秀のために執筆する。
□天福2年(1234) 孤雲懐奘が入門。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した。この頃比叡山からの弾圧を受ける。
□寛元元年(1243) 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。
□寛元2年 (1244) 傘松に大佛寺を開く。
□寛元4年 (1246) 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。
□宝治元年〜3年(1247〜1249)頃、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉へ下向する。鎌倉での教化期間は半年であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
□建長5年(1253) 病により永平寺の住職を、弟子の孤雲懐奘に譲り没す。享年54。
□嘉永7年(1854) 孝明天皇より「仏性伝東国師」の国師号を宣下される。
□明治12年(1879) 明治天皇より「承陽大師」の大師号を宣下される。
徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であるという禅を伝えた。
大権修利菩薩
禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる尊格である。
伽藍神の一つとされる。したがって大権修利は菩薩という尊号にはなっているものの、護法善神の一尊と見る向きもある。
<航海の安全を祈る>
多くの像容は、右手を額にあてて遠くを見る姿勢で表現され、身体には唐時代の帝王の服装をまとっている。
一説に、1227年に道元が唐より帰国する際、姿をひそめて随って日本に来朝して法を護ると誓った招宝七郎と一体であると伝えられる。この招宝七郎の名は『水滸伝』第77回にも出てくる。
【宮城県重要文化財】薬師如来立像(東方瑠璃光如来)・十二神将立像
■薬師如来立像(東方瑠璃光如来)
・応永22年(1415):秀龍作
・昭和31年(1956):県指定有形文化財登録
・カツラ材象高:79.4cm
カツラ材象の一本造で素地像。両手先・両足先を欠失する。寺の後山にあった目連寺薬師堂のご本尊で明治41年に円龍寺に移された。
薬師如来は瑠璃光如来とも呼ばれ、災厄を除去し、病魔を追い払う力をもつ。
■十二神将立像
・応永22年(1415):秀龍作
・昭和31年(1956):県指定有形文化財登録
・カツラ材象高:38cm
カツラ一材象の一本造の彩色像。薬師如来立像と一緒に円龍寺に移された。一体の背面の裏に「応永十二年八月一日権律師秀龍」の墨書銘がある。
薬師如来に従う十二神将には、それぞれ7千の眷属が従っているので、8万4千もの病気や苦しみを治してくれるという。